函館で生涯を終えたロシア人女性たち
ロシア革命後に函館で生活をすることになったロシア人たちは、概して漁業関係の仕事に携わる人が多かった。女性では、仕事でロシア極東に渡航していた日本人と結婚して来函した人たちも少なくない。そのグループから3人の女性の生涯を紹介したいと思う。1.エフロシーニャ・クリメントヴナ・カズローワ(日本名 入間川勝子、1895−1967)
オホーツク地方の村で生まれた。貿易商としてペトロパブロフスクやオホーツクで仕事をしていた仙台出身の入間川弘二と知り合い結婚。オホーツクでの家庭生活は順調だったが、1919年暮れにパルチザンが同市を襲撃した際に攻撃の対象とされ、一家は財産を無くし1921年1月に来函した。1928年に入間川は亡くなり、エフロシーニャには6人のこどもが残された。洋服の仕立てやロシア人デンビーの家で家政婦となるなど働きづめの毎日であった。熱心な正教信者で、没後は函館の正教会の日本人信徒の墓地に眠っている。
2.ナジェージダ・ステパノヴナ・ミリュコーワ(日本名 長谷川光子、1897−1948)
サハリンのアレクサンドロフスクで生まれた。父は島田商会の鉄工場の事務員だった。夫となった長谷川虎雄は函館商業学校を卒業し島田商会に就職、後に独立して雑貨商となった。長谷川家はオホーツク近郊のイニヤ村で暮らしていたが、入間川同様パルチザンの被害にあい、函館で暮らすようになる。ナジェージダは来日してからずっと和服で通し、義理の父母には日本人でもできないほどの仕えぶりだったという。長男の黄一は早稲田大学に進学し、水泳選手として名をなした。長谷川は1943年に5人のこどもをおいて亡くなった。ナジェージダは戦後東京の黄一のもとで暮らし、没後は函館近郊の大野町にある長谷川家の菩提寺に埋葬された。
3.ナジェージダ・ドミトリエヴナ・サンプルスカヤ(日本名 成田ケイ子、1903−1984)
ニコラエフスクで生まれ、16歳の時にニコラエフスク事件に遭遇し、家族と別れて日本の軍艦で避難する。樺太の真岡を経て東京に来たものの関東大震災に遭い、函館へ避難する。ここで日魯漁業のロシア語通訳成田実と結婚し、5人のこどもが生まれた。成田は結核を患い10年の闘病生活の後、1949年に亡くなった。ナジェージダはロシア語教師として働き生活を支える。戦時中は2人の息子を軍隊にとられたうえに、特高警察につきまとわれるなどつらい毎日を送った。戦後も北海道大学水産学部や民間のロシア語サークルなどで長く講師をつとめ、彼女の教え子がたくさん生まれた。函館には成田家代々の墓があったのだが、そこには入らずに、正教会の墓地に新しく造られた墓に夫とともに眠っている。
以上の3人は、故国を離れ差別や偏見に耐えながら、こどもたちには、まわりの日本人と同じような生活ができるようにと望み、立派にそれを成し遂げた。その一方、開港場であり北洋漁業で富を得た函館の人は、彼女たちをどのように見て、またどのように遇したのだろうか。果たして他の地域より寛大だったのか、そうではなかったのか、興味深い問題である。